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現代ファンタジー

 彼女のためだけの一人部屋だった。
机に向っているのは、本田多恵、十八歳。数字と記号の並んだ教科書と、細かい字で計算を書き綴った罫線ノートを机上に広げ、夢中になって問題を解いている。手を止めては考え、また手を動かす、その繰り返し。
 二人姉妹だが、多恵の高校入学を機会に部屋を分けた。努力型の姉の多恵は勉強だけでなく掃除も毎日こつこつと続けられるが、“気まぐれ”を生命エネルギーとしている天真爛漫な妹は、気が向かなければ片付けをせず、洋服なり、マンガなり、いつも何かしらのモノを散らかしている。普段の姉妹は趣向が似ており一見仲良しだが、性格が違うだけあって部屋の片付けの話題となった途端に全く気が合わなくなるのだ。多恵は高校入学のお祝いを「一人部屋がいい」と母親に言って譲らず、物置き然としていた空き部屋を自分で片付けることを条件に、念願叶って欲しいものを手に入れたというわけである。妹との小さなケンカがなくなってすっきりとしたが、なければないで寂しいということにも気付かされ、ほんの少しだけ、後悔している。
 夜遅くまでの勉強のお供は大袋に詰まった一口サイズのチョコレートだ。時折設ける休憩時間になると、一個一個丁寧に施された個別包装をむしり取ってはひょいひょいと口の中に放り込む。お徳用サイズの大袋を一日で空っぽにしてしまうことは稀だが、無いこともない。毎晩必ず風呂上がりに乗る体重計がはじき出すデジタルの数字にひやひやしながらも、この習慣はやめられずにいた。
 今日も右手の中指の固いペンだこの原因である筆記とささやかな夜食を繰り返すといういつもと同じサイクルを続けていたが、突然気付いたようにデジタル時計へ目をやった。

AM 1:46

そろそろ寝ないと、授業で眠ってしまう。
 しかし右手の動きは止まらない。あと一問。あともう一問。向上心はときに邪魔だった。それが彼女の長所である反面、短所にも成り得た。
 多恵は顔を上げた。彼女さえ音を立てなければ、部屋の静寂は破られないはずだった。なぜならこの部屋には彼女しかいないし、家族は皆、二時間前には寝床についているからだ。なのに、近所の生後間もない幼な子の夜泣きの声に混ざって、多恵は何か別のものを聞いた気がした。
 空耳にしてははっきりとした発音。あんな、耳元にメガホンをあてて囁いたみたいな声。
 『あのぉ』。多恵にはそう聞こえた。
 声の主を探して後ろを振り返るが、きっちりと閉められた部屋の扉は頑丈に入り口を守っている。築三十年、ずっと昔からそこにあり、誰かが入って来ようものならぎいぎいと耳障りな音が立ち、蝶つがいという名の金属片がその古さを主張するはずなのだ。
 誰かが声を発した跡は一つも見当たらなかった。寝ぼけた脳みそが出す間違った信号なのだと多恵は小さくため息をつき、微分積分を再開した。
 <あのぉ>
 多恵は、まな板の上でこれから切り刻まれる運命を待つ魚のように、びくっと元気よくはねた。
「だ、だだ、誰?」
多恵の呼び掛けに答えるものはない。扉の外の様子を見るべきだと決心した多恵は、キャスター付きの椅子から立ち上がりかけた。
<すみません>
聞き間違えようのない若い女の声に、足の筋肉から力が吸い取られ、多恵はストンとお尻を椅子の上に落とした。まるで耳元で囁かれているかのようにはっきりとした声が聞こえたので、そこに何かいる、あるいは何かあるのではないかと、右耳に手を当てた。手に触れるのは自分の柔らかな耳たぶだけなのに、手で何かを払う仕草をせずにはいられなかった。
<テスト、テスト>
手で、声の出所と思われる耳を払っても、叩いても、声は少しもぶれなかったし、大きくも小さくもならない。これでは、耳の中で人間が喋っているとしか思えなかった。
<音声テストです。聞こえますか。あーあー>
声は続いている。多恵は自分の耳の穴の中で体育座りをする、小人を思い浮かべた。
<ごめんなさい、びっくりさせて>
一通り音声テストをして気が済んだのか、誰かが申しわけなさそうに言った。
<そんな顔色をしているってことは、ちゃんと聞こえてるのよね? よかったら、返事をしてほしいな>
「うん。聞こえる」
 私は何をしているのだろう。姿の見えないものと会話をしている。誰と、一体誰と? こんなの正気の沙汰じゃない。
多恵の声も手足も、全身が震えていた。
<それはよかった。答えてくれて、ありがとう>
声は相変わらず、右の耳元ではっきりと聞こえていた。多恵は手でなにかを払う仕草をした。
<残念だけど、そんなことしても無駄。私に触れることはできないよ>
「どこにいるの。私の……耳の中?」
耳元で女がふふふと笑った。
<大丈夫、あなたの耳の中には誰もいやしない。私はね、『声』だけしか持っていないの>

 多恵は睡眠を取ることにした。もしも明日の朝起きてまだ耳元で声がするようだったら……そのときはそのときで対策を考えよう。とりあえず、今は寝ないといけない。きっと連日のテスト勉強で疲れているんだ。ただ疲れているだけ。そうに違いない。
<私がいることを信じないつもり? 聞こえているんでしょう>
寝不足が原因の耳鳴りにしてははっきりとした言葉である。
それも、ちゃんと意味が通っている。会話が成り立っているではないか。
<そうよ。あなたと会話がしたいんだもの>
多恵は布団にもぐって電気を消すところだったが、驚きで目を見開いた。
こいつ私の考えを読んでいる。口に出さなくても、伝わるんだ。
<大正解。ただし、全てが分かるってわけじゃない。ある程度強い考えでないと読み取れないんだ>
(へえ)
<ええ、そうなの>
<私、うるさいでしょ? もう黙るから、ゆっくり休んで>
それを最後に、声はぱったり聞こえなくなった。少なくとも、その夜の間は。

 幼な子を右肩に乗せて歩く夢を見た。耳元でおぎゃあ、おんぎゃあ。のどから絞り出すような鋭い声に、耳鳴りがした。なかなかの悪夢だった。
 翌朝、そんな夢を見た多恵の頭は、目が覚めてから起きることを予想しながら覚醒していった……。
 案の定、起きてみれば、<彼女>が耳元で喋りまくっていた。
<起きて! 起きて! なんでそんなにぐっすり寝ていられるの。お母さんがあんなに大きい声で呼んでるのに>
「うるさいなあ……」
<もう八時だけど>
多恵はベッドの上で飛び起きた。スマートフォンを充電コードの端子からもぎ取った。目覚ましをセットしたはずなのにと思って画面を見ると、音ばかりかバイブすら鳴らないサイレントモードになっていた。
<そういうことってあるよね。私も昔よくやったっけ>
<彼女>はそう言って、ひとしきり楽しげな笑いを、多恵の耳元でぶちまけた。
「ねえ。私の耳の中で喋るの、やめてくれない?」
多恵は声に出して、まさに “誰にともなく” 不満を言った。姿の見えない相手との会話を認めた瞬間だった。
<言わなかったかな。私、声しかないの。口も耳も、目も手足も、何にも無い。何も持たないのに、話しかけることができるのはキセキとしか言いようがないよね>
<彼女>は自分に言い聞かせるように納得した口ぶりで言った。もしも<彼女>が五体を持って目の前に存在ずれば、間違いなく腕を組み、深く何度も頷きながら話しているところだろう、多恵はそう思った。

 職員室の引き戸は素通りした。その向こうにあるのは保健室だ。多恵は迷わずその扉をそっとノックしてから、取っ手に手を掛け、戸を引いた。室内には白衣を着た保健医が、他の生徒の面倒を見ている。先客の生徒は貧血を起こしたらしく、真っ白な顔で丸椅子に腰掛けていた。先生が振り返ったところで多恵は口を開いた。
「先生、お腹が痛いんですけど……」
「生理中じゃあない?」
「違います。朝起きてから調子が悪くて」
「ちょっと横になっていなさい」
先生はあまり温もりの感じられない無い淡々とした顔つきで、多恵を空いているベッドに案内する。多恵は何食わぬ顔で茶色の革靴を脱ぎ、グレーのブレザーを着たまま、白いシーツのかかったベッドと布団の間に滑り込んだ。
<さぼってんじゃないよ>
(うるさいな)
<担任の先生にバレバレでしょ>
(私はふだん優秀で大人しい生徒だから、こういうことしても大目に見てくれるの。出席簿には『遅刻:理由:体調不良によりやむを得ず』って書かれるはずよ)
多恵は眼を閉じたまま、柔らかい布団に隠された口をにんまりさせた。<彼女>はしばらく何も言わなかった。
(あなた、高校生?)
多恵の方からはっきりと話しかけたことに驚いたのか、<彼女>はしばらく何も答えなかった。
<昔はね。今は違う>
(どういう意味?)
<今はただの『声』だもの>
 多恵は<彼女>が幽霊かもしれないとなんとなく思っていたが、霊感など少しも感じたことがない自分に、果たして霊の『声』を聞く事が出来るかどうかは疑問だった。その正体は本人に直接聞いてみるのが簡潔で最も解りやすい確かめ方だが、そうした場合に<彼女>はどう思うのだろうかと考えると、聞くべきではないことのように思えた。<彼女>は「声」だけの存在ではない。その背後に人間の心があること、それはもう間違いないと、多恵は確信していた。
<多恵。あなたはすごく集中力のある人なんだね。私は人の心を読み取るけど、大体の人は雑多な考えがごちゃごちゃになってるから、すごーく聴き取り辛いんだ。こんなにスムーズに、会話を楽しめたのは初めてだよ>
<彼女>に褒めるつもりがあったのかどうかは分からない。でも多恵はとてもうれしかった。私のようにあまり愛想のない人間には、面と向かって褒めてくれる人間はなかなかいない、と思っていたからだ。
 ただそれだけ。それだけのことなのに。多恵は急に切なくなった。なぜ。どうして<彼女>の穏やかな『声』を聞く事が、こんなに哀しいのだろう。二人だけの秘密の会話は、何気ない言葉が一往復するだけでも、深かった。それは多恵が、本音を洗いざらい話さざるを得ないからかもしれない。
 <彼女>との奇妙な共同生活は、突然はじまり、突然終わった。

 <多恵>
(なに?)
 多恵の顔は自然と微笑んでいた。自分でもそれを感じられる。頬の筋肉がほぐれたのは、<彼女>と出会ってから。“二人”は無事に定期テストの日程を終えて、校舎の中庭のベンチの一つに腰掛け、読書をしながら、暖かな日光を浴びていた。
<あのね>
(どうしたの)
次の言葉までに、とても長い間があった。
<言っていないことがある>
多恵は黙った。<彼女>の話し方に変化が無くても、<彼女>の顔が哀しげになっていることが、なぜか分かってしまう。無理をしているのだ。努めて明るく振る舞おうと。
<言わなきゃいけないことなんだけど>
(もったいぶらないで、言ってみてよ)
再び、長い沈黙があった。
<明日の朝、雨が降るけどバスには乗らないで。いつもと同じように、歩いて学校に行ってね>
(どうして?)
真っ先に聞き返していた。どうしてそのような忠告をする必要がある?
<そうしないと、私みたいになっちゃう>
(「死ぬ」ってこと?)
<彼女>は言葉を発する代わりに、重苦しい沈黙を作ることで、多恵の質問に答えた。
急に、目頭が熱くなった。多恵は嗚咽を漏らすまいと、喉にぐっと力を入れた。
(出て行って)
<言われなくても出て行くよ。いつもそうしてきたから>
 こうして「声」は多恵の耳から永久に消えた。

 不吉だもの。「死ぬ」って予言されたりしたら、誰だって嫌な気分になる。そんなことを予言した「声」を、追い払いたくなるでしょう。<彼女>は好きになりかけたけど、何か物怪のようなものだったのに違いない。恨みを持った怨霊とか、生霊とか、今まで信じたことはないけれど、やっぱりそういうものは存在するのかもしれない。だって、そうじゃなかったら、<彼女>はいったい何者だったというの?

 翌朝、目が覚めてまず耳に入ったのは、雨音だった。
「多恵、バスで行きなさい」
制服のリボンを結ぶ娘に向かって、母親が言った。
「うーん、どうしよう」
多恵は上の空で答えた。
「どうしようも何も、こんな土砂降りの中、学校まで歩いて行ったら……」
母親は、娘の無関心な態度に少し腹を立てた様子である。
「はいはい、分かったよ」
母の苛立ちを感じ取った多恵は、面倒くさそうに返事をした。
「テストの結果、楽しみにしているからね」
母が優しい笑みを浮かべていることを横目で確認しながら、返事をしないで家を出た。
 <彼女>の声は聞こえなくなっていたが、多恵はもう一度<彼女>は現れるに違いないと確信していた。ただのケンカ。今日、何事も起こらないで家に帰ったら、『ちょっとふざけてみただけ』って言う、のんびりした穏やかな声が聞けるはずだ。
 避けきれないほどの大きな水たまりの水をはねながら、自宅のある小さな団地を出たところで横道に入った。バス停まで歩くにはふだん通らない細い道を抜けなければならず、ここへ入った以後に徒歩通学に切り替えるとかなりの遠回りになってしまう。
……バスには乗らないで……
傘に落ちる大粒の雨の音で、耳が麻痺した。この大雨の中、わざわざ徒歩通学、しかも一旦道を外れたために遠回りのコースを選ぶのは、ばからしかった。
……そうしないと、もしかしたら私みたいになっちゃう……
私みたいになっちゃう。私みたいに。死ぬなんて。そんなこと、あるわけない。
……言われなくても出て行くよ。いつもそうしてきたから……
“いつも”って、何。あなたは一体誰なの?
 多恵はハイソックスとスカートをずぶ濡れにしながら歩き、歩き続け、バスには乗らなかった。学校に着くと更衣室へ走り、乾いたジャージに着替えた。
 学校から帰宅して夕食を食べている最中、母はテレビのニュースを見て涙ぐんだ。もしも自分の娘がこのバスに乗っていたらと。彼女を愛するが故の涙に、多恵は少し驚き、母の顔を直視できなかった。
 テレビ画面を、母親と二人で食い入るように見つめた。事故を起こしたのは、通学と通勤ラッシュに加えて悪天候の影響で超満員の、まさに多恵が乗るはずだった路線バス。大雨による視界不明瞭と路面スリップによる横転事故で、けが人は重軽傷あわせて三十人に上ったが、死者はゼロだった。テーブルに置かれた、赤字で学年三位と記されているテスト結果の厚紙は、多恵の手からじわりと滲み出た汗で、しっとりと湿っていた。

 どこから始まりどこまで続くのか分からない空間を移動していた。そこにいたかと思えば、次の瞬間には全く別の場所にいる。運命的に誰かに捕まえられない限り漂い続けるしかない。意識だけで肉体を持たないから、仕方が無いことだ。
<彼女>の場合、限られた者に与えられる力を持ったため、一カ所に留まり、人間たちと同じように世の中を見つめる事が出来る。それが幸福なことなのかそうでないのかは彼女自身、分からなかった。

[君はよくやっている。これは人のためであり、君のためでもあるんだよ。悲しむ必要はない]

男の声にはある種の厳しさが備わっている。

<私はただ、あの子を助けたかった。彼女がどんな人間だろうと関係ない。ただ、私のように突然命を絶ってほしくなかったから。なぜ死ぬのかも分からずに死んでしまうのは悲しすぎる。だから、運命を変える手伝いをしたけど……だけど……姿がないから怖がるのは当然よね。“予言”をすれば別れがやってくる。私は黙って去る事しかできない>

[そう。役目を終えたら、帰ってくれば良い。元々住む場所の違う者たちと、共に居続けることは不可能。そうだろう?]

<でも……>

[君は選ばれたのだ。君ならきっと他人のために、任務を全うできるだろうとね]

男は去った。<彼女>は再び漂流に投げ出される。次の役目が与えられるまで、他の者たちと同じように、意識の旅を続ける。私は選ばれたのだと、言い聞かせながら。

 ねえ、私の声に答えてよ。謝りたいんだ。ちゃんと聞いてあげなくてごめんって。
 あと、お礼も言いたいんだよ。ありがとうって。
 聞こえてる?
 聞こえてるなら、返事をしてよ。
 夜になっても雨は止まなかった。窓に激しく打ち付けられる雨音の中に、<彼女>の声が聞こえやしないかと多恵は耳を澄ませていたが、ついに、あの穏やかな女性の声を聞く事は二度となかった。

end

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