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ただいま

ショートショート

 カスミは空を仰いだ。薄曇りだ。そして蒸し暑い。時折かすかに吹く生暖かい風すら、救いだ。満員電車を降りた後なのだから、なおさら外の空気であればなんでも良かった。
 今日は遅くなってしまった。止むを得ず上司の許可をとっての残業だった。顧客の都合なのだから仕方がない……と自分に言い聞かせるものの、近ごろ社内では残業をしないことが当たり前といった風潮になり、今日も唯一残業を申し出たのがカスミひとりきりだったのだ。残った仕事は無事に片付いたが、ねぎらう仲間が誰もいないオフィスを施錠するのは、達成感よりも、むなしさが上回った。
 街灯、飲食店やコンビニ、それから行き交う自動車の光を頼りに、歩き慣れた道を今日もゆく。電車に乗っている最中に電話がかかってきた。やむをえず出られなかったので、SNSやメールでメッセージに返事を打った後で、ようやく、折り返しの発信ボタンを押すことができた。
 暗い夜道を一人で歩くのは仕方がない。そうしなければならない独身女性など日本中に何万人も存在する。それに、毎日通っている道なのだから特に何も感じない。それでも時折不安に感じる場面といえば、人気の少ない高架下とか、人がいないのにブランコが揺れる公園の横を通るときくらいだろうか。そうだとしても、通話しながら歩いていれば、ほんとうに何も気にならない。

「もしもし。ああ、ごめんね。電車だったからさ。え? うんうん、マユの結婚式ね。そのことだと思った。行くよ。もう返事のハガキは出したし。あ、そうなの? もりちゃんもくるんだ。ひさしぶりだな〜」
 ありふれた道を歩いて、すぐにアパートが見える距離までやってきた。
 友人と話していると、すっと身体が軽くなるのを感じる。職場のタイムカードを押して、自動ドアを抜け出したときから、少しずつ、少しずつ、オフするためのクールダウンを続けて、電車ではひたすらスマホのパズルゲームに興じて、むりやり私生活でのわたしを演出する。それから、たまたま、友人からの突然の着信で、しめたとばかりに折り返し電話だ。学生時代からの友人と話せば、たちまち若さを取り戻した気分になる。

 ありふれた、スチールフレームの格子の洋風の門扉をぐっと力を入れて開いた。足元でじゃりっとした感触があったのでチラッと見ると、泥の足跡が目に入った。午前中はにわか雨だったから、誰かがどこかのぬかるみを靴の裏にへばりつけて帰ってきたのだろう。カスミは構わず電話で話し続けた。アパートにエレベーターはついていないので、螺旋状の階段をずんずん登っていった。毎日のことながら、2階を超えたあたりからしんどさに襲われ、息が荒くなる。
「きっついわあ。え? アパートの階段上ってるところだから。あはは。うん、そう。もうすぐ家に着くよ。じゃあそろそろ……え? そうなの? 大変じゃん」
 息も絶え絶えに、それでも会話の終わりが見えそうで見えない。相槌を打っているうちにいつのまにか3階を超える。ほんのりとめざわりな、泥の足跡がときどき目に入る。さっきから足元がじゃりじゃりと、アパートの門のあたりからずっと続いているのだった。
「うん、そうだよね。え? やっと階段終わったからさ。そうでしょ!? ほんとしんどいんだから……」
 カスミは急に言葉を切った。泥の痕跡はずっと続いた。カスミの部屋まで続いた。友人は電話の向こうでずっと喋り続けている。カスミが会話をやめたことに気づかない様子で。カスミは自分の部屋の前に立った。そして足元を見下ろした。玄関扉は、泥の足跡をまたいで閉っている。足跡は大きいサイズのスニーカーの靴底を思わせた。カスミは玄関扉を前に動くことができなかった。いつまでも立ち尽くしていた。

end

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